決心への招きについての考察です。私は大変参考になりましたし、頭の中が整理されました。

Preaching&Preachers(説教と説教者) 1971ロイドジョンズ  P405〜407 抜粋。

…風は思いのままに吹きとある通りです。予測することも予期することもできないのです。もっとも優れた説教者や聖徒でさえも、しばしば何も起こらず、実のない礼拝を経験し、そのことを嘆いたのです。リバイバルの時期でさえ何事も起こらない日々や集会がありました。ところがその翌日に圧倒的な力が臨むこともあったのです。ですから、多少にかかわらず、あらかじめ何が起こるかを予測し、言明することができるということ自体、常に聖霊のみわざを特徴づけている事柄とは適合しないことを表明しています。私は決して、こうした働きにおいてこの方法を用いる人々の動機や真心を疑ったり、純粋な回心者がいるという事実を疑っているのではありません。ただ、自分としては、なぜそれ(決心への招きのこと)を用いないかを示しているだけです。

では、一体、どうしたらよいのかと問うかもしれませんが、私は次のように答えます。招きの訴えはみことばの真理そのものに、つまりメッセージのうちになければならないと。メッセージを語るときにはいつでもそれを適用し、特に、終わりには最後の適用をしてクライマックスに至るようにします。しかし、招きの訴えは使信の一部であり、必然的にそうあるべきです。

…躊躇せずに言いますが、間を置いてからや讃美の後に改めてする招きの訴えは、神の御霊がそれをするように圧倒的な命令をしていると気づいた時にだけ行うべきです。私もそう感じる時があれば、それを行います。そう感じる時だけですが。その場合でも、私は人々を前に進み出させるような方法を取らず、礼拝後でも、他の時でも、喜んでそのような人々とは会う用意のあることを知らせるだけです。

彼ら(会衆)は自分でそうしたいと思う時にするでしょうから、自由にさせてください。こうしたことは強いてはいけません。これは神の御霊のみわざなのですから。しかも、完全で永続的なみわざなので、私たちは結果について取り越し苦労をしてはいけません。そうするのは不正直ではないにしても、誤りです。私たちは御霊に信頼することと、ご自身の誤ることのないみわざにより頼む事とを学ばねばなりません。

…上記は、本来牧師や教会指導者が読むべき内容ですね。そもそも『Preaching&Preachers(説教と説教者)』というタイトルがそれを意図しています。

でもね。地域教会に所属しているクリスチャン全員が知っておくべきだと思うのです。福音派の集会で割りを多いし、超教派の集会でもよくみられます。さらには絶対しないはずのジョン・ウェスレーを重んじるウェスレアン・ホーリネス系の◯◯教会では頻繁です。前回書いたようにウェスレーのアルミニウス派は神学的にもしないのです。どうなっているんだろう。

教会が衰退していかないためにも、みんなが知っておいて損はないと思いました。