礼拝後の時間

クリスチャンの言葉では一般に〝交わり〟と呼ばれる。

全くの新来会者として始まった私の教会生活は相当に大変だった。

前項で書いたが、横須賀ではある教会に半年間通った。都心では2つの教会に1年以上所属した。

礼拝後にあれだけ大人数の人がいるのにぽつんとなった。そして、ぽつんとなっている人を度々見かけた。相当な頻度だ。もちろんひとりでいるのが好きな人もいるだろうが、それは稀だ。

ともかく、一般的に仕事で忙しい社会人男性(もちろん社会人女性も、それに子育てとか大変ですよ)」が日曜日にわざわざ時間を作って一人で誰も知り合いがいない場所に行くというのは、ふつうのことではない。「教会というところに行ったが、誰も話しかけて来なかった」だったらもう二度と来ないのでは。

私が淀橋教会、新宿シャローム教会に通うことができたのは、ある人が私をいつも喜んで受け入れてくれて、私に話しかけて来てくださって、私をいろんな人に紹介してくれたおかげだった。

名前を出してしまう。淀橋教会役員の堀切さん。シャローム教会の林長老(私と会っていた時はふつうの信徒だった)。この人がいなければ間違いなく私は教会を去っていたと思う。

親愛なる堀切さん…。私は今でもあなたが大好きです。気さくで、型にはまらず、腰が低く、人の気持ちを理解できて、何にも縛られない自由があり、そして神様と、子どもたちを愛している。言葉よりもすぐに行動される方。堀切さんのような方が大勢いたら、教会も相当に変わるのでしょうね。あなたこそ、真の〝役員〟と呼ばれるに相応しい方。身を削ってでも人に尽くされる。誰彼と区別なく受け入れてくださる。そんな努力を惜しまない方。あなたへの感謝の思いが私の胸をいつもある。

さてさて、私が何度も何度も悲しい思いをしたまま帰路に着いた結論。

キリスト教会はどうすればいいのか。

礼拝後に、クリスチャンが茶を出したら、誰かが「一緒に座りましょう」と言わなければならない。その人を輪に入れて、心から話す雰囲気を作らなければならない。

(こう言われる方も多かった。「どうぞ自由にしてください」←これはダメです!親切な言葉であるが、しかし!実際は絶望することになるのだ。アウェイの空間、知らない人々の中で〝自由に〟などできはしないのだ。無責任な言葉。これは落とし穴だ。結局ひとりぼっちになっても誰も気にもとめないこともある)

こういった教会側の自発的な愛ががなければ、ただおいてあるお茶をひとりでお飲んだとしても何になろう。やはりぽつんなのだ(教会に来たことの後悔と落胆で、ひとり帰途につく。あまりにも悲しい。とくに独り身には、この心情が分かるだろうか。その人は二度と来ることはない)。

私のような教会の外の立場になったことがない人には決して理解できないであろう。私も自分が何度体験したからこう現場で起こっていることが言える。教会を出なかったら決して気づかなかっただろう。

一人ひとりを大切にする。暖かい人間関係に入れてあげる(輪を広げて行く)。それはもしかしたら、対象者に対して独立人格として認めることなのかもしれない。

良きサマリヤ人が人に声をかけたように。明らかに無視していない。ひとりの人格者として捉えることだ。…お分かりになられるだろうか。

もう一度言うが、誰かがお茶(なんでもいいのです)を持ってきて、「一緒に座って話しましょう」と声をかけて実際にそうすることである。ここまでが、言い過ぎだが私は原則としてもいいとさえ思っている。…私は何度も何度も体験して得た結論。この意味、意図をご理解してほしいと思う。

実際にシュミレーションしてみるといいかもしれないね。

礼拝後の時間に適用されるように思いました。あなたは祭司あるいはレビ人か、それともサマリア人でしょうか。

ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。ルカ10:31〜34