プロテスタントのキリスト教会の礼拝後

私はヨハン教会を出て、5つ程の教会をひとりで回った。

これまで牧師だった人が今度は全く初めての教会に行くのだから、こういった感覚は初めて味わった。まさか自分がこれを経験するとは…。いわゆる〝新来会者〟となったわけだ。全く知り合いもいなかった教会もあった。

ですから、私は真の新来会者になった。滑稽なことである。

…そこで私は現代のキリスト教会の深刻すぎる洗礼を度々受けた。(この場合の洗礼とは俗語としての洗礼である)。

礼拝が終わっても誰も話しかけて来ないのである。珍しいことではなかった。教会に所属している人達は、仲の良い人達同士で集まり楽しく会話が始まる。割と平気でこれができる。

ぽつんと新しい人がいても話しかけて来ない人がかなり多い。

それでも何度か教会に行ってみると、声をかけてくれる人は増えてくる。もちろん私も話す。それは非常に嬉しいことだった。

…しかしですね。みんな一定の距離をとっていることがわかる。(私がヨハン教会出身者であることはこの場合そんなに影響がなかったと分析している。牧師とはとても仲良くなった。ただ、教会にいる人々はふつうにみんな一定の距離をとられた。むしろ進んで仲のよい人たちと一緒にいることを相当優先する)。

横須賀に住んでいる時は近くの教会にも行ったし、都心に1時間かけて何度も何度もある教会に行き続けた。

礼拝が終わると、仲の良い人達だけでご飯を食べるのだ。この繰り返しには何度も絶望させられた。

少なくとも3つの教会で絶望感を味わった。何回も何回も。(50人以上の教会)

そんな日は、今日は教会に行かなければよかったと、心底思った。数十回も悲しみながら帰途に着いた。

おそらく、このことに同意される方は非常に多いと思う。とくに教会で出たり、転入された経験がある方は。

キリスト教会は教会に新しい人が来ることを望んでいると思われる(事実そのために熱心に祈っていたりもする)、が、現実は何とそれと隔離していることかと、相当なショックを何度も受けた。

人が教会につながる!?ためには、礼拝後にある暖かい人間関係が必要不可欠なのだ。これができるのは、そこにいるクリスチャンだけなのに…。

教会が敷居が高いとは文字通りであり、特に初めて教会に来る人は相当な勇気をもって来るものだ(これがわかるだろうか)。しかし、なんと!こうした〝貴い一人〟に愛を示さない。

教会側から自発的な愛を示さなければならないのに、どうも逆になっている。

教会が、新しく教会に来た人や(教会員でない人も含む)のーどうもこちら側の自発的な行動を待っているーという変な構図になっている。大変申し訳ありませんがこの事例を幾たびも経験した。そして幾たびも見た。

愛はクリスチャンから自発的に出るべきなのに…。

この〝自発的〟という言葉は最も重要なキーワードのひとつだと何度も痛感させられた。

真の愛は自発的。私はこの5年間で幾たびもこのことを心に刻む経験をした。

次回

→改善策

あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。フィレモン 14《新共同訳》

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。Ⅰペテロ5:2《新改訳》