賢人の助言。大好きなロイドジョンズの書籍から。

マーティン・ロイドジョンズ

『説教と説教者』いのちのことば社 P.244〜247一部抜粋

・…しかし、私はこの主題を扱うのにいつもためらいを感じます。自分が扱う聖書箇所にあるときは、それについて説教しましたが、祈りに関する本はもちろん小冊子さえ出版しようなどと考えたことはありません。ある人々は機械的に祈りを取り扱い、その種々異なる面を捉えて分類するので、大変単純なことのように思われます。
しかし、祈りは単純なことではありません。もちろん、祈りには訓練の要素はありますが、祈りということの性質上、そのように取り扱うことはできません。つまり、私が言いたいことはー私の個人的な経験からですがー、祈りの場合にも自分自身を知ることはたいへん重要であるということです。
深い霊性が自分に欠如しているせいかどうが分かりませんがー自分ではそうだとは思いませんがー、率直に告白して私はしばしば朝祈ることに困惑を感じてきました。
そこで個人的な祈りに関していくつかの事柄を学びます。命じられてひざまずくことはできても、祈りは命じられてもできません。ではどう祈るのでしょうか。祈れる環境や状態に自分を置くことを覚える、私はこのことほど重要なことはないと分かりました。祈りをどう始めるかを学ばなければなりません。自分自身を知ることがまさにこの点でもたいへん重要です。まず一般的にデボーショナルなものを読むことはとても価値があります。デボーショナルという語は感情的なことではなく、そこに真の礼拝的要素があることを意味します。だからと言って祈るときはいつでもみことばを読んで始めなさいというのではありません。そのことにも困難を感じる時があるからです。自分の霊性を励ましてくれるようなものを読んでください。自分の霊の内にある冷たさを追い払い、内にある霊の炎を燃え立たせ、元気づけてから祈り始めることを学ばなければなりません。…これから得ることは非常に多く、私は徒労に終わったことはありません。祈れない状態にあるなら、無理に祈るのはしばらくやめて、自分を元気づけ励ましてくれるものを読んでください。そうすればもっと自由に祈れる状態になるでしょう。
しかし、私は書斎で仕事を始める朝のひと時に祈るような束の間の祈りで充分だと言っているのではありません。むしろ、その逆です。祈りは一日中続けられるべきです。祈りは必ずしも長くなくて良いのです。
とっさの叫び声も時には真の祈りであるように、短くても良いのです。それがⅠテサロニケ人への手紙5:17でパウロが、「絶えず祈りなさい」と勧告していることです。
それはひざまずきなさいというのではなく、常に祈れる状態に自分を置きなさいということです。道を歩いていたり、書斎で仕事をしている時もでも、祈りによって自分を度々神に向けることなのです。とりわけ祈りたい衝動に駆られた場合にはー私はこのことを何よりも重要だと考えますがー、必ずそれに応答してください。…私はこれを一つの絶対的な規則と定めたいのですー。
その衝動は聖霊のみわざです。これはしばしば教職者の生活でもっとも際立った経験に導いてくれます。…そうすれば、取り組んでいる事柄にとっても時間の浪費ではなく、むしろ大いに助けとなるのが分かるでしょう。何をするにも落ち着きと用意さを経験するとでしょう。もしこの祈りの衝動が頻繁に起きるならむしろ神に感謝してください。

 

絶えず祈りなさい。Ⅰテサロニケ5:17《新共同訳》《新改訳》

たゆまず祈り〈忍耐強く祈り〉なさい 《詳訳聖書》

 

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