日本に

①リバイバルが起こる。

②起こらない。

③分からない。

私は①に近い③だ。

私は正直なところ分からない。ただ、多くのクリスチャンのように①を〝希望〟〝期待〟している。その理由も書いた。

私が②起こらないかもしれない、をとるのはある意味聖書に則ってる。

私は未だ会ったことはないのですが、いつも参考にしている牧師がいる。ブログを見始めた。

最初は何となくだったが、今ではとても参考にしている。京都アッセンブリーオブゴット教会の村上密牧師だ。カルトからの救済を第一線で戦っている。会ったこともない人のブログを無断で記載してしまいます。失礼と分かればすぐに削除したいと思います。…でもね。この人すごいなって私は思っているんです。

その先生の記事

後の雨運動は、自分たちの運動をヨエルの預言(2:23)の成就と解釈している。ところが、ペテロは、ペンテコステの出来事(使徒2章)を、初めの雨とは言わないで、ヨエル2章28、29節の成就としている。その他の使徒も、ペンテコステの出来事を初めの雨とは言っていない。後の雨運動は1938年にカナダからは始まった。彼らは、ペンテコステの出来事を初めの雨と見做し、自分たちの運動を後の雨と見做しているに過ぎない。雨は収穫と深く関わっている。それで、後の雨運動系の預言者たちは、終末には大リバイバルが起きると主張する。ところが、イエスの世の終わりへの言及(マタイ24:4~14)とパウロの終わりの日への言及(2テモテ3:1~4:4)は、大リバイバルを否定する内容である。
 なぜ、大リバイバルが起きないのか。裁きは、人が神に立ち返るのではなく、神に背く人が増えるから起きるのである。イエスは「人の子の日には・・・ノアの日に起こったことと同様です。・・・ロトの時代にあったことと同様です。・・・人に子の現れる日にも、全くそのとおりです。」(ルカ17:24~30)そして、「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)と語られた。これは、信仰が見られない状況である。エレミヤはバビロンへの捕囚を預言した。多くのにせ預言者は、平和を預言した。ユダ王国が堕落したからこそ審判の時が来たのである。聖書には、終末の大リバイバルではなく、惑わしと、困難な時代が預言されてある。後の雨運動が形を変えて広がりつつある。これに惑わされる人も増えつつある。世界中でリバイバルが起きているが、その実態は、健全な教えではなく、後の雨運動と繁栄の神学が結びついたリバイバルである。これは神からのものではなく、人からのものである。その証拠に、その指導者たちは、金銭欲、名誉心、物欲、性的不道徳、偽りの教えで多くの問題を起こしている。これこそ終わりの日の背教の現象ではないか。さばきは教師からとあるが、まさに教師が堕落して行くからこその言葉である。

 

これは2014年の記事だが、私が気づいたのは2016年だった。読んだ時に、本当にそうだなーと思った。…確かに起こらないかもしれないなと思った。むしろ、信仰者には厳しい時代だなと痛感させられた。私がもう自死寸前だったから余計に。

ここ数年間で「新使徒運動」や「後の雨運動」に関しても私は理解を深めて来た。

「新使徒運動」に関しては、これはもうないなと確信している。新しい使徒は必要ではない。彼らは聖書を持ち出して主張しているが、私も聖書を取り出してそれはないと言える。実際に数回セミナーに出てより確信した。ただ、新使徒運動が影響力を広めていく要因に、〝現代キリスト教会〟の力のなさ、矛盾、衰退という大きな隙間があることは間違いない。(私はそう捉えている)

私は現代に〝使徒運動〟は必要ではないと思っている。ただし、パウロが教会を建てたような〝使徒的な働き〟は必要だと思っている。教会はそもそも普遍性をもっている(普遍的教会)ので、現代に新しい使徒を立てる必要はないと思う。むしろ、混乱とカルトを促すことになる…。

また話が逸れる。後で知ったのだが、村上密牧師が献身を決めた聖句と私がヨハン教会を出る時に与えられた聖句が同じだっただ。これには驚いた。

立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ/汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ/主の祭具を担う者よ。しかし、急いで出る必要はない/逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから。イザヤ書52:11〜12
このことにも親近感が湧いた。ネコや自然好きも。
話を戻す。もしリバイバルが起こらないとすれば、私も村上牧師と同じ立場に立つとそう言える。
もちろん、リバイバルは起きてほしいと願っている。
しかし、カルトや現代キリスト教会の堕落を扱い、警鐘を鳴らし、被害者を支える身からすると、少なくとものんきに!?〝リバイバル、リバイバル〟なんて言っていられないと思う。むしろ、現実、目の前で困っている人を助けようとする。それが神の道だと思う。(でも、イエス様を愛すれば愛する程、リバイバルを願わない人はいないんですよね)。
会ったことのない人のことをこのように記載して大変申し訳ないと思います。
しかし、私はこうした働きの尊さを覚え、村上牧師のご活躍を密かに強く願っている。自分の人生にこうした先輩牧師の働きと意志を受け継いで(勝手になのだが)進んで行きたいと思う。
…というか全然違う結論に至りました。
→続く