昨年の夏、ある超教派の大きな集会に参加した。

主だった牧師たちが登壇した。数人のメッセージを聴いた。

正直言って、私は絶望を感じてしまった。私はあの牧師たちが高名で立派な人であり、現代キリスト教会の重鎮であることを知っている。

例えばこの言葉だ。

「神様は全能だから今すぐでも日本にリバイバルを起こすことができる!」牧師は力を込めて言った。

…かつて何度も聞いた言葉だった。信仰歴がある程度のクリスチャンなら聞いたことのあるセリフだ(もしかしたら福音派に多いのかも)。しかし、私は既にそう思わなくなっていた。失望と怒りがこみ上げる。

さらにこう言うのだ。

「神様が日本にリバイバルを起こさないのは(起こせないのは)、クリスチャンが十分悔い改めていないからだ」と。

夏の集会のみならず、2年前のある有名伝道者の集会でも、過去数十回、大小問わず、超教派の集会でも、聞いた。

「神様は全能だから今すぐにでも、明日にでもリバイバルを起こせるのだ」

「そうされないのは、私たちの祈りが足りないからだ」

「私たちに悔い改めていない罪があるからだ」

「私たちの献身が足りないからだ」

…もう何十回も聞いた。

「だから悔い改めましょう」

「だから熱心に祈りましょう」

「だから再献身しましょう」

司会者は、声を大にして祈りを導く。(感極まって泣く場合も)。

…私は〝完全に終わっている〟そう思った。←悪意はないが本心でそう思ったのです。

まるで、輪廻だ。堂々巡りの無限ループ。

『信仰義認の真理』『十字架の完全な罪の贖い』はどこにいったのか。

今まで何十年間こうやってきて何か変わったのだろうか。変わったのならいいのだが…。

 

冒頭の「神様は全能だから今すぐにでも…」

言った瞬間に今はこう思う。

「なぜ神様の真実な品性を無視しているのだろうか、いつから教会は全能だけで物を言うようになったのか」と。神様は真実である。

〝全能〟というのは、〝真実という土台〟に立脚している。そうではないだろうか。切り離せない。

 

…こうしてみると、まさに現代キリスト教会の混迷ぶりを暗示していると思った。

とにかく、あのようにメッセージして、信徒を導くことは〝ひどい〟と思う。

時にはけっこう威圧的であり、裁きの座に牧師が立っているかのようだ。

(はっきり申し上げて、使徒パウロがこんなメッセージと祈りの勧めをすることは私には全く想像できない)

だから、〝ひどい〟と心底思った。〝人間の力〟を感じ、〝御霊の自由〟は感じられなかった。

クリスチャンは救われた義人ではなく、救われた罪人となる。

結果として、ある意味信徒は教会活動に熱心になり、社会と隔離し、現代教会の出来上がり。

果たして人はこのようなクリスチャンになりたいって思うのだろうか。

これを見て「私も救われたいな!」って思うのだろうか。

…ふつうに考えて〝ない〟と思う。

集会の最後に祝祷で終わる場合も。どうして神に向かった人の心の間に、再び〝牧師〟が入るのだろうか。

こうして、「人⇆神ではなく」、「人⇆牧師⇆神」と、カトリック教会と同じ構図になっている。

〝伝統だから〟と言ったところで、本質は深刻なズレが生じていると私は思っている。

 

〜こういったことから、私の随想が生まれた。

ブログ②神の知恵と神の道http://www.reiwa-ishin.org/article/32

ブログ④神の道と愛http://www.reiwa-ishin.org/article/52

 

…今回めちゃくちゃ書きました。でも、それでも、いい牧師いい牧師なんです(そうじゃない人もいますが、牧師病、役員病はヤバイです。要するに人を自由に動かせる、と思っている人)。…でも、今までじゃ絶対にダメなんです…。

以上、言いにくいことを書いてみました。

しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。エフェソ2:4〜10 《新共同訳》