これまでのことを踏まえると、私の見解ではリバイバルがもし起きるとするなら、それは教会(建物としての)の外からやってくると思う。もちろん、全く神様の領域と主権のことなのだが、今回は敢えて申し上げる。

建物を中心とした既成概念のキリスト教会からは起こらないと思う。既成概念!?をもっている人からはおこらないであろう(こう言うと辛い)。教会から去っていった信仰厚いクリスチャンたちは神様に大きく失望することになるからね。そんな神様の品性を無視したリバイバルが起きることは考えられない。神様の品性は真実だから…。

さらにひとつ申し上げる。

なぜ、クリスチャンはリバイバルを願うのだろうか。これは非常に重要な問いだと思う。コピペのような上辺の知識的な回答ではいけないと思う。

人が救われるから。牧師に言われたから。神の御心だから。そう言われたから。みんな祈っているから。神の臨在がほしいから…。日本にリバイバルが起こってほしいから。イエス様が真の神様であることをみんな知ってほいしから…。

聖書を引用する。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

私の見解

神は世をみている。クリスチャンは世をみているだろうか。

世とは何か。社会である。我々の関心は結局のところ教会をみているなら結局は何も起きないと私はほぼそう思っている。

教会にリバイバルが起こり、結果として世が潤される、みたいなことを言うクリスチャンが非常に多いように思う。本当にそうなのだろうか!?と私は数年熟考した。

クリスチャンは世に関心があるのか。このリアル(現実)に。闇の中に。貧困に。虐待に。社会の矛盾と混乱と悲しみの人間模様を。嘆きを。涙を。絶望を。その人々のリアルな生活を。私の見立てでは、教会歴が長い人ほどこの世に本当の意味で関心がないように思う(もちろんそうでない人もいる)。

なぜなら世と関わりを絶ってしまったから。自分は安定した生活をしているから。

祈祷会で祈りはするが、それは本心、真実からなのか…毎週続きそして慣例と習慣になっていく。

神は世を愛した。私たちがこの世に関心がないのなら一体なんのためにリバイバルを熱心に祈るのだろうか。

では、と問う。

この社会はどんな風になればいいのか。その筋道をもっているのか。イメージできるのか。結局のところ、仮にリバイバルが起きたところで、教会はまた他人任せの姿勢をとるのだろうか。(こうした他人任せの姿勢が今の状態作ってしまったとも言える)。

リバイバルの先にあるものを求めているのか。

その先を観ることが非常に重要ではないかと私は思うのです。

司馬遼太郎氏によると、唯一、坂本龍馬だけが幕府崩壊後の青写真をもっていたらしい。

未来を観る。〝見る〟ではなくて〝観る〟

社会、家庭、全ての諸問題、国や法や何かの仕組みではどうにもならなかった問題が、聖霊によって生み出された人のいる社会では、真のエクレシアでは解決されないだろうか。リバイバルはこれを可能にしないだろうか。

暖かい人間関係が社会に回復されないだろうか。その時に、建物中心の教会が真に必要なのだろうか(それは建物であって教会ではない、それに人々は拘束されはしない)。

外に、世に、社会に、人々の行きやすいキリスト者の集まり(エクレシア←コミュニティと言ってもよい)があって、互いに愛し合い、助け合い、真の幸福が求められるのではないだろうか。今までなされなかった和解がないだろうか。赦しがないだろうか。癒しがおこらないだろうか…。(そう言った意味でここに悔い改めが生じるのだろう)。

だからこそ、私はリバイバルを求める。

キリストが、神がそうしてくださるように願う。

人が真に救われ、その人生が神によって幸せな、尊厳ある人生を歩めるように、と。そうした世を私は求めるのです。

『神はこの世を愛した。独り子を与える程に…。神の愛は世に向かった。

キリストは最も低くなり、人と同じ立場に立ち、そして人を理解された。

キリストは人々の中に行ったのだ。』

→続く