もしも仮に教会にリバイバルが起こったらどうなるだろうか。

ここでは、社会変革のことは抜きにして、教会のことを考える。

もしもある教会にリバイバルが起こったら、おそらく慢心するだろう。

大勢の人々(クリスチャン)に注目される。
自分たちの悔い改めが正しかったのだとこうなる。
この教会の歩みが正しかったのだ、とこうなる。
…果たして本当にそうだろうか。
教会の歴史には教会側の対応のまずさで泣いて出て行った人々もたくさんいるだろう。

聖霊が降ったから人々は悔い改めたのだ。
聖霊が先なのか、悔い改めが先なのか。

リバイバルは伝統ある教会で起こったことがあるだろうか?
もしも教会の歴史や伝統がリバイバルをもたらすのに正当な理由付けをクリスチャンが持っているとしたら、それは間違いではないだろうか?祈りにしても。
なぜなら、どんな地域教会も表裏がある。
輝かしいものがある一方で、そこで傷ついた人もいる、不和もあった。
牧師として、完全ではない。
人は概して良い面だけを見ようとする。

そもそも、教会歴史性や伝統に意味をもつとすれば、あの有名な伝統ある、由緒正しいイギリスの、ドイツの、アメリカの有名な◯◯◯◯教会は廃墟にならなかっただろう。売りにも出されなかっただろう。さらにはエルサレム神殿が崩壊することはなかっただろう。

人の目と神の目は違う。

そして…。

私たちの生活はこの世のなかにある。
その意味で教会はこの世と分離しない。
教会特有の教会主権意識、この主張をしつつ、教会にこの世をもって来るのか、それともこの世に聖書をもって出ていくのか。

誤解される言い方になるが、本来、聖書を携えて教会の外に出るべきなのだ。

そして…。

私には今もなおかつての信仰の友が、教会で苦しんだ信仰の友が大勢いる。

そして、その人々は今もなお健気に切磋琢磨しながら自分の人生を生きている。この世に悲しみ、痛み、そこに人間の姿がある。

これらを無視して教会はリバイバルを神に叫ぶことができるのだろうか。

リバイバルが起きるなら(聖霊が人々に降るなら)、それは神の栄光である。

人の行いではない。それに注目がいかない。終末のリバイバルはきっとそれを無視する。

神様のみの栄光が現れる、それを褒めたたえる形でそれは来る。

→続く

諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。詩篇96:7