もう時期、大正のリバイバルに向けて超教派の集会がもたれる。

個人的によいことだと思う。

一方で、こうした方法でリバイバルは訪れないと思う。

この点について過去数年間熟考した結果、私はそう〝思う〟。

一言で言うと、神様はこうした方法では働かれないと思うからだ。

〝神は真実な方〟である故にそう思う。

3つの点で私の意見を述べたい。まず1つ目は、〝神は真実である故に〟。

5年前、以下のずっと不思議に思っていた聖書箇所について、どうしても解答がほしかった。

以前の教団でたくさんの人が傷つけられ、人生を壊されていった。そして、私もそこに加わったのだ。神様はこのような人々にどんな風に応えてくださるのだろうかと、非常に疑問に思ったのだ。一方で、傷をつけた加害者達は、大金を手にした。大金を手にしない人でも、相変わらず教会に残り、神の愛を口にしながら安穏な宣教生活を送っている。過去を思い直さず、傷ついた人々のことを故意に完全に忘れる。その現実に私は困惑しないではいられなかった。そんな時にこの聖書箇所が目に留まったのだ。

ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」2王はギブオン人を招いて言った。――ギブオン人はアモリ人の生き残りで、イスラエルの人々に属する者ではないが、イスラエルの人々は彼らと誓約を交わしていた。ところがサウルは、イスラエルとユダの人々への熱情の余り、ギブオン人を討とうとしたことがあった。3ダビデはギブオン人に言った。「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろうか。」4ギブオン人はダビデに答えた。「サウルとその家のことで問題なのは金銀ではありません。イスラエルの人々をだれかれなく殺すというのでもありません。」ダビデは言った。「言ってくれれば何でもそのとおりにしよう。」5彼らは王に答えた。「わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、6あの男の子孫の中から七人をわたしたちに渡してください。わたしたちは主がお選びになった者サウルの町ギブアで、主の御前に彼らをさらし者にします。」王は、「引き渡そう」と言った。7しかし、王はサウルの子ヨナタンの息子メフィボシェトを惜しんだ。ダビデとサウルの子ヨナタンとの間には主をさして立てた誓いがあったからである。8王はアヤの娘リツパとサウルの間に生まれた二人の息子、アルモニとメフィボシェトと、サウルの娘ミカルとメホラ人バルジライの子アドリエルとの間に生まれた五人の息子を捕らえ、9ギブオン人の手に渡した。ギブオンの人々は彼らを山で主の御前にさらした。七人は一度に処刑された。彼らが殺されたのは刈り入れの初め、大麦の収穫が始まるころであった。サムエル記下21:1〜9《新共同訳》
要するに、ダビデの時代に3年間の飢饉が起きて、
ダビデ「どうしてですか?」
神様「サウルの時代にギブオン人を打とうしたからです」
「えっ?」となる。
サウルの時代から約20年も経った後にこんなことが起きた。しかも、ダビデがやったことではない。前の王のサウルがしたことだ。
結局はサウルの子孫は殺されることになった。何度も何度この理由と正当性を祈り求めた。
注釈書も調べたが、納得できる答えは得られなかった。
ただ何となくわかったのは、こうした罪の贖いがイエスキリストの十字架を暗示させるものだったくらいだった。
そして、一方で思った。
今は分からなくても、神様は蛮行と罪を覚えておられる、ということだ。
不思議にも神様はサウルの時代に解決させず、ダビデの時代に解決させた。
しかも、ギブオン人たちはそれを根にもっていたのだ。
ダビデの時代に解決させたと言うことは、あのダビデだから解決できたということも言えるのかなと思った。
…そして、教会で傷ついたクリスチャンを連想した。
彼らはイエス・キリストと約束したのだ。信仰により、十字架により、永遠の契約を交わした。
その人々が〝教会に〟〝教会で〟大きな傷を負ったのだ。
そして多くの人が教会から離れた。(※この場合の教会とは建物中心の地域教会)
多くの人々が信仰から離れた。しかも、多くの人が自らを責め、良心の呵責を覚えながら…。
これはキリスト教会のまぎれもないリアルな現実である。
こうした教会が、「リバイバルを求めて神様が応えてくださる」、「聖霊が降り注ぐ」と言うことがあり得るのだろうか、と何度も何度も熟考した。そうだ、きっと神様はこうした祈りには応えられないのだ、と。もし違うと言うなら、とうの昔に応えてくださっただろう。私も以前の教団でみんなで相当に、真剣に祈っていた。多くの教会が熱心に祈っている。去っていった彼らのことはもういいのか。いや、そうはされないはず。
神は真実で正しい方…。
この真実こそ、神の力よりも、奇跡よりも、神様の品性の中で最も核心ではないかと私はそう思った。
では、リバイバルは起こりうるのだろうか。
→続く