イエス・キリストの血に洗われた結果を想像してみた。もしもキリストの血潮に浴したならば。
灰色の踏み台は…
神の栄光の反映となり、輝いており、燃えている。
そう思った。
きっと闇の中に輝き、暖かく、誰かを照らし、人は憩う。
そんな焚き火をイメージした。
もしも私の中に私というアイデンティティがあるとすればこれだ!と思った。
逆に言えば、それ以外は考えられなかった。
そして、気づいたのは、灰色の踏み台というのは、やはりサタンからきたものだということ。
私は一生そうやって生きてきた、そしてこれからもそう生きていったと思った。これが私のできる最善のことかなと。それが私の人生なのかなと。夢をもてなかった。将来がほとんど白紙だった。
灰色の踏み台のイメージは私の全身のみならず、半径1mは薄黒かった。私にとってそれだけ大きかったのだ。
それをやめようと思った。
だって、アイデンティティ通りに生きるとすれば、そう生きるのだから。そう生きたくはなかった。
私も神に救われた者の一人。
もしもイエスキリストが「あなたは誰ですか?」
私は「あなたの栄光によって輝く炎です🔥」
と答えるのだろう。そして、そのように生きていきたいと思う。
みなさんは、自分のアイデンティティはどのようなものですか?
もしも私のように、惨め?なクリスチャン生活をしているのなら、一度考えてみませんか?
キリストにあるあなた自身の本当のアイデンティティを見つけてほしい。
キリストの血潮に浸かり、清められ、神の命が吹き入れられたなら、そこにはどんな自分の姿があるのでしょうか。
イエス様はきっとその栄光の姿で生きる私たちを喜んでくださるはず。
アイデンティティ。
それが私のクリスチャンの生き方になる。
一歩一歩、この救われた人生を喜んで、神のために捧げて生きれればなと思います。アーメン。
参考