私のアイデンティティ。私の本当の姿は〝灰色の踏み台〟ではないと思った。

イエス様「あなたは誰ですか?」

私「灰色の踏み台です」

イエス様「…うーん、もうちょっと考えてみよう」

こんな感じになったかも知れません。

ここは自己肯定感と関係していると思います。(私はたくさん聖書で学び、さらには都や区の研修でも子ども自己肯定感の重要性を学んできたはずなのに…)

私がひどく低いなんて、、、。

友人は私に助言した。

「もしもイエス・キリストの血をその灰色の踏み台に流したらどうなるのかな」

私はしばらく目を閉じてイメージしてみた。

イエス・キリストの十字架で流された血。…神の子の血。…全ての罪を洗い清める血。

灰色の踏み台は全く違うものになると思った。

神の子の血を浴びて灰色のわけがない。

その灰色の踏み台は神のものである。

友人「もっとドバドバかけてみたら」

踏み台は全く新しく生まれ変わっていると思った。もはや踏み台でもない。

神の栄光が表されている。

参考聖句

復活の体の方が真理だと思う。これがクリスチャンのアイデンティティなのでは。将来、実際にこうなるのだから。

また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。Ⅰコリント15:40〜49《新共同訳》

…続く