①の続き
ちょっと畏れ多くも、イエス・キリストのアイデンティティをちょっと考えて見る。
つまり『私は◯◯◯である』というところ。
ある意味、イエス様もこの〝アイデンティティの通りに生きていた〟ということが言えると思う。
『私は〝ある〟と言う者です』
私は世の光である。私は命である。真理である。道である。
真のぶどうの木。よき羊飼い。蘇りであり命です。
…というように、イエス様は自分をこう理解していた。
では、私は?となる。
私はここに凄まじい混乱をきたしていた。
ふつうのクリスチャンなら〝私は神の子です〟〝イエスキリストによって救われた者です〟とこうなると思う。
私もそれは変わらない。そう言える。
だが、しかし!
教会カルト化によって、長い期間、上役の宣教師によって蹂躙され罵倒され、人格否定されてきた結果、私は自分を大変惨めなものだと言う思いがどこかで否定されにくくなってしまった。
現実を見ると、自己紹介欄で記述したように、本当に何も無くなってしまった。これもいつか記載すべきことかもしれないが、さらに別教団で、今年、週報にあった私の名前が突如消されていた。何かの間違いかと思い、おかしいと思い、2週間後主任牧師に聞いたら…えっ!という展開だった。いくらなんでも事前に言うべきじゃないか…。
私が長年所属した教団は、今もなお、日本宣教を夢見ている、そう祈って伝道活動している。あれだけ犠牲者を出しても。過去の被害者を見ない。資金はまだ50億もある。毎月10万円の給料。社会保険料を一円も払っていなかった。教団を出て、40手前にして私は初めて社会保険料を払いはじめた。
みんな、それぞれ幸せそうだ。
…では、私は、と時々思ってしまう。
私は何者なのだろうか。
残されたこの命、生涯にどんな意味があるだろうか。
もしもイエス様が私に向かって、あなたは誰ですか?と質問されたら、
私は答えにかなり詰まっただろう。
つまり心の奥ではそんな気持ちのままだったのだ。