イエス・キリストは誰よりも私たちを〝理解〟してくださる方。

私は非常に長く苦しんでいた。カルトの深みはクリスチャンでも到底理解できないだろう、そうつくづく思い知らされた。同じ境遇をたどった人でないと。その意味でカルトを出た人は、まるで戦争に行って帰って来た人と似ていると思う。戦争は経験した人でないとわからない。後遺症に悩むのだ。

そして、クリスチャンは躓いたクリスチャンに非常に冷たい。

名のある牧師も信仰歴が長い人も、意外と冷たい。そのことに全く驚かされた。(彼ら話しかけた私に原因があるのかと言えば難なく事足りるのだが、やはりつくづくクリスチャンは冷たいと思いました。※やはり、素晴らしい牧師もいた。彼らに共通したのは一言で言うと柔和さだ。落ち着いていて、品性が練られている。)

むしろクリスチャンではない人の方が暖かく、人間味があり、同情心があった。このことにも驚かされた。

おそらく、キリスト教会の現実を知る人は、私の意見に同調してくださる方が多いように思う。悲しいことではある。

 

人は誰でも、自分を理解してほしいと思う。それが人間だと思う。

過去に私は上司(宣教師)に言われた。

『誰がお前のことを理解できるのか!いるわけないだろう!』そう言って、無茶苦茶な理論を並べて私を罪に定め一方的に怒鳴り散らしていた。一方で思った。(そうだ、確かに人は誰も自分を理解できないのだ)と。ほとんど死刑執行だった。…心にずっと残った。今もあの場面を思い出す。

 

さてさて、私はそれから数年後ある書物で目が開かれた。2015年だった。

リーズ・ハウェルズの絶版した本のコピーを光子先生から頂いた。

翌年、一人でゆっくり横須賀の部屋で読んでいた。

…我らの性質を御自分の上に受け、受けた苦難(くるしみ)によって従順を学び、我らのようにあらゆる点において試みられ、我らのために貧しき者となり、ついには、我らのために罪とされ、そうすることによって執り成しの場所を獲得し、苦難を通して全うされた救いの〝長(おさ)〟として全権威を持ち、且つ、我らが通って来るすべてのことを全く理解しつつ、我らのために執り成しをしようと常に生き、父なる神に力ある祷告をなすことにより、御自身によって神に来る者を完全に救うことを可能とする。このように、一つとなることは、執成者の、第一法則である。

…彼は執り成しをする者のために生命を与えたがゆえに、適切に力ある執り成しができる。あるいは、彼は被祷告者の代弁者であり、彼らの乏しさと苦難の下に御自身の利益を埋没し、文字通り彼らの立場を得たのである。  P.82

『大祷告者リーズ・ハウェルズ』昭和29年発行 いのちのことば社 160円  

…というような内容。

要するに、イエス様が完全な執り成し者としておられるのは、執り成し手としての正当な位置にいるからなのだ。その位置は、私と同じでなけれなならない。私と同じになるためには、深い同情心をもって〝理解して〟私と全く同じ場所にいることなのである。だから私のために執り成しの祈りができるのである。

私は思った。イエス様万歳!!!と。

一方で連想した(してしまった)。クリスチャンはよく誰かのために祈るように教えられる。(もちろんそれは正しい)。教会でも、祈祷会なんかで誰かのために祈る。あるいは、それ以外でも往々にしてよくある。

しかし、慣れとは恐ろしいもので、同情心なしに、義務的に機械的にもできてしまうのである。まるで習慣かのように。

人を理解することの大切さを忘れていないだろうか。なぜその人は苦しんでいるのか。悩んでいるのか。孤独なのか。あるいは、怒っているのか。塞ぎ込んでいるのか。躓いているのか。

その背景、そこを見ずして人を理解することはおろか、真の意味で執り成すこともできない。無論、人は人を完全に理解はできない。しかし、理解しようと努めるところに愛があるのだと思う。(表現に語弊はあるが、それがキリスト教、じゃないの?)

そうした祈りは義務感でも機械的でもない。真心がこもる。

〝命〟があると言っていい。

もしかして、教会はここを失っていないだろうか…。

イエス様の素晴らしさを私はまた深く感じたのだった。

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。ヘブライ2:17〜18 《新共同訳》