なぜなら、あなたがたを襲った〈捕えた〉誘惑、〈すなわち、〔どのようにして生じ、またどんな結果に至らせるにしても〕罪に誘うものとしてみられた試練〉は、人間にとって普通でないようなものは、一つもないからです。〈すなわち人間の抵抗する力以上のもので、人間の経験に調整されない、適合されない、属さない、また人間が耐えることのできないような誘惑《試み》は、あなたがたに臨んだことがないからです〉。しかし、神は、〔ご自身のみとこばと、ご自身のあわれみ深いご性質に対して〕真実であられ、あなたがたをあなたがたの力〈抵抗する力〈耐える力〉以上の誘惑〈試練〈試験〉に合わないようにし、また誘惑とともに、〔いつでも〕脱出の道を〈波止場まで逃れて行くための手段〉も備えてくださり、こうしてあなたがたが、誘惑の中で忍耐をもって耐えることのできる〈強い〈力ある〉者になるようにしてくださる〔と信頼できる〕方なのです。《詳訳聖書》

きっと聞いたことのある言葉。

『神様は耐えられない試練を与えないし、逃れの道も用意しているんだよ』。私は何度も聞いたし、実際に私も言っていました。

ところが詳訳聖書を見ると、そう言った趣旨ではなく、

1.誘惑から遠く離れられる道が用意されていること。 (例 ヨセフ、ダニエル)

2.私たちが忍耐の中で強い者になることができること。→イエス様の似姿となっていく。

だと思うのです。

結論

神様は私たちを忍耐の中で強い者とされる〟これがパウロの趣旨だと思うのです。

いかがでしょうか?

話を戻しますが、私は〝神様は耐られない試練を与える〟ことを主張したいのではありません。そうではなく、神様はいつでも善き方であり、信頼すべきお方です。

歴史をみれば、どれほど多くのクリスチャンが殉教したのか分かりません。この国でも。これからも世間を震撼させるニュースがあるでしょう。世と悪魔は私たちを殺すこともあるでしょう。その意味で私は耐えられない試練は起こり得ると思います。それがこの世界の現実であり暗闇だと思います。だからこそ、私たちは励まし合って、愛し合って生きていかなければならないと思うのです。それが可能にするのが、イエス・キリストの教会(真のエクレシア)だと思うのです。ここに暖かさと希望を見出します。

やがて全てを栄光へと変えてくださる主を待ち望みながら…。