思い切って言おう。『耐えられない試練はない』は間違い

『耐えられない試練はないよ、神様は真実な方だからね』

キリスト教会で度々耳にする言葉だ。私も長年そう思っていた。

しかし、自身は長期にわたり苦しみ、呻きの日々を過ごす中で、果たしてその言葉は真実なのだろうかと非常に疑問をもつようになった。何故なら、ほとんど自死の手前だったからである。聖書の言葉が真実なら、クリスチャンは誰も自死することはない。

しかしながら、クリスチャンが自死するケースは少なくない。時には牧師でさえも。これをどう一体どう説明するのだろうか。

苦しみを知らない第三者のクリスチャンが、時々平気でこの言葉を口にすることがある。もっとも真実に激しい試練を通過して、その上でそう言えるならばそれは素晴らしいことである。しかし、真実に苦しみ、試練を通過中の人には、軽々しくいう冒頭の言葉はその人をさらに極地に追い込んでしまう剣になってしまうのだ。

親切にもこう言われる牧師がいた。「神様は耐えられない試練は与えないよ」さらには、「○○○さんよりはマシだよ」

ほとんど死刑宣告だった。なぜそう思ったのか、「ああーこの人はとてもじゃないが私を理解しようとしていないばかりか、上辺の知識で言っているんだろうな、」と。そもそも苦難を人と比べること自体に何の意味もないのだと悟った。むしろ、それこそ反聖書的である。苦しみの種類も深さも程度も、一人ひとり感じ方や受け止め方が違うのだ。でしょ?

もしも、クリスチャンが平気で『神様は耐えられない試練は与えられないよ』などと軽々しく全ての場合に言うのであれば、本当に寄り添いと励ましを必要としている人を殺してしまうだろう。

ニュースに飛び込んでくるではないか。不慮の事故や事件。突然娘を殺された人。強姦された人。詐欺で全財産没収。常識では考えられない不当な苦しみを経験した人に何と言うのだろうか。それでも冒頭のあの言葉を言うのだろうか。間違いなくキリスト教会に匙を投げるであろう。

というわけで、私はあの有名な聖書箇所を調べてみた。

Ⅰコリント10:13

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。《新共同訳》
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。《新改訳》

ちなみに口語訳も。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。《口語訳》

やはり試練と記されていた。詳訳聖書で調べてみた。

なぜなら、あなたがたを襲った〈捕えた〉誘惑、〈すなわち、〔どのようにして生じ、またどんな結果に至らせるにしても〕罪に誘うものとしてみられた試練〉は、人間にとって普通でないようなものは、一つもないからです。〈すなわち人間の抵抗する力以上のもので、人間の経験に調整されない、適合されない、属さない、また人間が耐えることのできないような誘惑《試み》は、あなたがたに臨んだことがないからです〉。しかし、神は、〔ご自身のみとこばと、ご自身のあわれみ深いご性質に対して〕真実であられ、あなたがたをあなたがたの力〈抵抗する力〈耐える力〉以上の誘惑〈試練〈試験〉に合わないようにし、また誘惑とともに、〔いつでも〕脱出の道を〈波止場まで逃れて行くための手段〉も備えてくださり、こうしてあなたがたが、誘惑の中で忍耐をもって耐えることのできる〈強い〈力ある〉者になるようにしてくださる〔と信頼できる〕方なのです。《詳訳聖書》

詳訳聖書、万歳だった。原文では試練ではなく、〝誘惑〟ではないか!だとしたら意味が通じる。しかもよくよく前後の文脈を読むと、ここで突然試練が出てくるのがおかしい。どう考えてみても、10章は誘惑について述べているではないか!それに気がつかなかったとは…。

しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。Ⅰコリント10:5〜12《新共同訳》

 

使徒パウロは、『神は耐えられない試練を与える方ではない』とは言っていないことがわかる。そればかりか、原文を読むと全然違う結論が導き出される。

→続く