4. ロイドジョンズの視点
〈参考〉
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。マタイ5:11〜12

、、、今学んでいるこの聖句は、キリスト者であるとはどういう意味かを語っている。迫害され、人々が偽って、口をきわめて悪口を言うとき、あなたは「喜び」、「喜びおどる」(新改訳)。

ところでこのことは、生まれつきの人にとっては、全く不可能である。彼は復讐心を制御することさえもできない。憤慨の気持ちを起こさないことなどさらにできない。ましてそういう場合に「喜び」、「喜びおどる」などということは、絶対にできないことである。けれども、これこそ、キリスト者が召されているあり方である。主は、これらのことにおいて私たちは、主に似なければならないと言う。ヘブル人への手紙の記者は、このことを「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び」と言って表明している。

…すでに引用したように、ヘブル人への手紙の記者もこう述べている。キリストは、「自分の前におかれている喜びのゆえに」12:2、恥をもいとわないで十字架を忍んだのである。キリストが忍んだのは、十字架のかなたのきたるべきものに目を向けることによってであった。

D.M.ロイドジョンズ著 『山上の説教(上) 』1970 いのちのことば社  P.218 、P222

以上の文章から、ロイドジョンズ師も、ふつうにヘブル12:2の訳を〝喜びのために〟と理解していた。

 

私たちへの適応

1.喜びを捨ての場合(新共同訳)

イエス様が十字架を背負われることは、苦難であり、苦しみとなる。イエス様の心情と信仰に希望よりもむしろ悲壮感の方が強く映ってみえる。敗北感がある。

日常の何気ない幸せを放棄してしまう可能がある。過去の清貧のクリスチャン像や宣教師像を自分に重ねて、福音を伝える人生に大きな重荷を乗せてしまうことになる。そう教える教会、牧師も少なくない。私も教えられ、そう思っていた。

だが、それが神様の御心なのではない。

神様はユニークであり、世界を私たちが楽しみ喜ぶために作られた。美しい景色、美味しい食べ物、私たちの目は世界を美しく見られるようにできている。

クリスチャンはただ十字架を背負って生きる人生ではない。

2.喜びのためにの場合(新改訳)

イエス様の信仰は燃えていることが伝わってくる。敗北感はない。むしろ、信仰の完成者である勝利者の姿だ。十字架を背負うと言うとは、ただ苦しみだけではない。

現在は苦しみはあるが、未来にある栄光を信じて(信仰をもって)、喜んで生きることを神様は願っておられることが分かる。それこそ、クリスチャンの生き方ではないだろうか。だから、互いに励まし(聖書で35回表記)が必要である。

〈参考〉

いつも喜んでいなさい。Iテサロニケ5:16
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。ヘブライ3:13

人が十字架を背負って生きる前に、イエス様が先に私の十字架を背負ってくださったことを思いだしてほしい。

信仰は未来を見る喜びなのである。

どうかこの文章を見た人に豊かな聖霊の注ぎがありますように。