イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である」ヨハネ14:6
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。マルコ7:8

私は、最近「道」という言葉に足を止めて、思いを巡らすことがあった。
ある朝のデボーションのことだった。使徒行伝20章以降を読む中で「神の道」という言葉が目に留まった。私には時折賛美を作る趣味があるのだが、ちょうど「信仰の道」という言葉を歌詞に当てはめたばかりだった。
そういうわけで、「神の道」の「道」に目が留まったといえる。賛美を作りながら思ったことは、〝神の道〟とは、すなわち〝信仰の道〟であり、〝信仰の道〟とは〝神の道〟であると私の脳裏で今一度合点がいった。

誰でもキリストに従う人生を送ろうとするなら、〝人の教えよりも神の教え〟を選んでいく、そんな生き方を願う。しかしながら、この両者の見分けがなんと難しいことだろうか、と私は近年再三思ったものだ。おそらくそんな時代なのだと私は思ったのだが、歩を弁えるべきであり自分を過信しないように、との思いをもちつつも書く。

世の中にあって、社会において両者の区別はたやすいといえよう。それは、例えば、公正であり、清さであるような、良心に呵責のない選択、凛とした品格、品性を求めていくことが自然と回答となる。では、キリスト教会ではどうだろうか、と投げかける。ここに私が先に述べた難しさがあるように思うのだ。

人の教えなのか神の教えなのか。この論争はご存知の通り、かつて主イエスが律法学者を叱責したテーマのひとつである。神の教えを捨て、先祖の言い伝え、―長老の教えとも書いてある―をあなたがたは守っている、と。
主に叱責された律法学者を弁護するつもりはないが、人間とは我々が思っているよりもずっと、神の教えから離れ、人間の教えに巧妙にすり替わりやすく、ふと気が付けば皆がそういう状態になんの疑問も抱くことなくなってしまっていた、という宿命に近いものをもっているように思える。

これは非常に多岐に渡ると思う。一例で言えば、常識となっている教会の在り方、運営、礼拝の形式、順序、あるいは方法、どれをとってもいい。果たしてそれは、神の教えなのだろうか、人の教えなのだろうか。
さらにこう問いかけてみるとさらに深層にはいる。それは〝良いこと〟なのだろうか。それとも〝良いと思われること〟なのだろうか。概して、多くのことが、神の教えではなくいわゆる先祖の教え―この場合クリスチャンの先輩といっていいーになっていないだろうか。それは神からでたものなのだろうか、それとも人からか。
この見分けがキリスト教会内でできなければ、まさにそれは神の知恵をどこかにおいてきてしまったといえるのではないだろうか。そして、結果として道に迷い、道を失う。単に霊の人が築き上げてきた良い?伝統を否定しているのではないことは申し上げておく。

少し話はわきに逸れるが、聖霊は人に知恵と理解力を与えてくださると聖書は教えている。祈祷会、赦し、従順、あるいは誰か有名な人の預言というような、もしかすると先祖が長い期間築き上げてきた正当な、王道のレールをこれからも進んでいくことが、健全であり、疑問をもつことすらいけない聖域となっていないだろうか。

事実、過去に聖書の教える信仰を否定するキリスト者、団体によって神の教えを守るキリスト教会は大変な深手を負ってきた。致命的とも言えそうだ。いまもそうである。であるが故に、先に申し上げたキリスト教会内でのこうした発想がタブーに近いものであり、信仰的動機であっても進んで触れることを難しくしているとも思える。

そこで先ほど神の知恵と理解力に触れたのだ。稀代の天才医師による診断、諸葛孔明のような天才軍師による分析を経て、そして真に必要な処方箋と知恵をいただきながら、教会は本来あるべき道を未来に向かって進むことはできないのだろうか。
ヨセフ、ダニエルの名前を挙げてみる。多少誇張気味かもしれないが、彼らは自分のおかれている国の過去(歴史、経緯の分析)、そして、今という時代の現状把握―キリスト教会の座標と置き換えて言うには無理があるか―さらには先見の英知をもって未来を見たのだ。まさに聖霊による知恵と理解力によるものだった。

あるとき、諸葛孔明は家臣の姜維(きょうい)にこう教えた。
「要するに兵法の極意というのは、術ではなく道にあるのだ。術は上辺にすぎず、根底にある道こそが肝要」と。
私はこう思った。つまり方法や技術は表面であり、全体としての進むべき方向、大動脈を見つけそれを理解していることが大前提としてあって、そこで初めてその術に意味や根拠が付いてくる、と。(もしかすると、道を知っているが故に新しい術を生み出す可能性もある)。そして、その大動脈の道の上を進むことができる、と。

これは神の道と似ていないだろうか。道を知らなければ、術に陥る。術自体にいのちはない。
またわきに逸れる。
剣道、茶道、何々道というのは日本人には馴染みがある。武道、芸道などの武芸は、価値観や哲学的要素が底辺にある。武芸の目的は術の獲得ではなく、根底に流れている生き方や自己の精神的修練であり、これこそが大動脈である。技は孔明のいうところの上辺の術に過ぎない。見えざるものこそが本質というのは聖書が語る真理と同じである。

教会(この場合、地域教会をさす)、礼拝、祈祷会、伝道会、年間目標も然り、それは術である。さらには我々が愛と呼んでいるものも術になっていないだろうか。―それは神の意図した愛とは違うー愛については別に述べる。

神の道。今の座標を知り、そして未来へと進んでいく深層にある大動脈の流れを理解しているだろうか。もしその道を神の知恵により得ることができれば、上辺と呼ばれる術も、以前にはない鮮やかな色が付くだろう。

そして、私はこのような思索のなかで改めて思った。「わたしは道であり、真理であり、命である」、と言った主のことばを。ご自分を「道である」、と言われたことばの意味の深さをまた少しだけ知ったような気がした。