ヘブライ人への手紙12:2
問い 〝喜びを捨て〟なのか〝喜びのため〟なのか
3.文脈上の観点から
ヘブライ人への手紙10章はイエス様の贖いについて語っていると思いますが、だんだんとクリスチャンが試練の中でも忍耐して生きることを奨励してくる内容へと変わってきます。〝試練の中の信仰〟と言えると思います。
いかに理不尽なことがあっても神様が未来で報復・審判すると教えています。〝信仰〟は常に未来に視点がおかれ、約束もまた未来にあります。
11章
イエス様の裁判の様子を思い出すと、自分がよそ者であり、国籍は天にあることを公に宣言しています。もしかしたら、そのような時にも信仰によって変わらない〝喜び〟があったのかもしれません。しかし、十字架上で「わが神わが神、なぜ私をお見捨てになられたのでしょうか」言ったその時は、自分が〝呪い〟となったわけですから喜びはなかったと思います。
考慮する箇所
この箇所を読むと、12:2の「喜びを捨て」という解釈の伏線になるように思われます。
11:4-34までは、信仰によって勝利する姿が連続していますが、34以降はむしろ苦しむ姿が連続しています。
この人たちは自分の意思で、苦しむことを選択したように思います。モーセの信仰について言及している箇所、
「はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び(ヘブライ11:25)を思い出します。
しかし、11章も総括してみると、後半の人々の苦難の箇所は、信仰によって「与えられる報い(11:26)」、未来的な意味で「約束されたもの(11:39)」に目を留めていたからこそ発生した苦難であったと言えるのではないでしょうか。
そもそも、こう書いてあるではありませんか
信仰の完成者という視点。さらに上記を踏まえると、12:2は〝喜びのために〟と訳すべきだと思いました。
かなり偏見かもしれませんが、伝統的なカトリック的思想を連想します。人が修道院的生活に魅力と清さを見出し、価値をもつことです。人間にはこの傾向があります。世間と隔離すること、または禁欲ともいうのでしょうか。こうなると神様が人に与えている日常的な幸せ、ふつうの喜びも否定してしまい(律法的になって)、神様の創造の素晴らしさ、豊かな御人格から離れていってしまうと思うのです。
〔かつては私もそうでした。奉仕中心になって。でもね、そうすると、喜びがなくなり、いつかバーンアウトします。御霊の自由もなくなります〕
まじめな人ほどこれに陥る。
→続く