2016年1月。神様の不思議な導きで、私を牧師として受け入れてくれる教会が見つかった。迷い苦しんだ挙句の奇跡だった。そして、新宿シャローム教会の稲福先生や光子先生に挨拶をして、私は横須賀に引っ越した。韓国系の小さな聖霊派の教会だった。テーブルや中古の洗濯機、布団、収納ボックス、電子レンジ。今まで何ももっていなかった。だからとても有難かった。ちょうどその頃、私は佐々木満男弁護士と出会ったのだった。

新共同訳はプロテスタントとカトリックの共同事業で訳された聖書である。
一方、新改訳はプロテスタントのみによって訳された。

一般的に教会堂の十字架にイエス・キリストが磔にされているのがカトリック。
単に十字架のみが掲げられているのがプロテスタント教会に多い。

もしかしてもしかしたら、ヘブライ12:2の訳に日本のカトリック的な思想が反映されたのではないかと考えた(推測)。
苦しむイエス様、苦難のイエス様。このイメージがある。
もちろんプロテスタントにもそれはあるが、同時に復活がかなり強調されている。

詳訳聖書という聖書をご存知だろうか。
私は光子先生に教えてもらうまでその存在を知らなかった。のちに購入した。
詳訳聖書 昭和37年発行 いのちのことば社
要するにギリシャ語原典からの詳しい訳(日本語は新約聖書のみ発刊)

〔私たちの心を散らすいっさいのものから信仰の最初の動機を与えられた〕私たちの信仰の導き手〈源〉であり、また〔信仰を円熟と完成に導く〕完成者であるイエスを仰ぎ見ながら〔走ろうではありませんか〕。彼はご自分の前に置かれた〔賞を得るという〕喜びのために、恥をもいとわず〈無視して〉、十字架を忍び、今は神のみ座の右に座しておられるのです。 詳訳聖書

〝喜びのために〟とする理由

1. 原典から(もはやこれだけで決着と言ってもいいのだが)

2.信仰の完成者というの視点から

苦難の道を苦難として歩むのか。苦難の先にある栄光を見て歩むのか
どちらが信仰の完成者の姿であろうか。イエス様は疑いもなく、後者の姿。信仰の完成者としてあの十字架を背負いに行かれたと私は信じる。

3.文脈から

4、ロイドジョンズの引用から

→3と4は次回