2015年、2月、私は山形から逃れるように新宿に戻って来た。家もお金も全くないので、当時の友人の家を1ヶ月程で2軒回った。
その間、知っている中国人姉妹から数年ぶりに突然連絡があった。その姉妹は私がかつて仙台で牧師をしていた時に教会に導かれた姉妹だった。〔当時中国人が20人に増えた。みんな東北大学のふつうの大学生だったが、イエス様を信じ変えられていった。私は中国人たちが大好きだった。仲間だった。震災前に上司の韓国人宣教師により中国部は一方的に解体。震災後、みんな帰国した〕。
「先生、Facebookみました。新宿にいるのですか。会いませんか」と、messengerで突然連絡がきた。そして、4年ぶりに会った。彼女は社会人になり、あの仙台の中国人数名が、今は新宿シャローム教会に通っているのだという。とても懐かしかった。翌週に電話すると、その中国の姉妹は「稲福先生に話しておきました」と言ってきたのでもう行くしかないと思った。その流れで私は新宿シャローム教会に行ってみることになったのです。
(→to be continued)

さて、ヘブライ12:2の続きである。大変疑問に思ったのだが、正直なところ、まともに考える心の余裕がなかった。清掃業と学童の繰り返しで疲労し、未来が全く見えない絶望に、ただその日をやり過ごすことしかできなかった。

ただその時に思ったことは、
12:2の〝喜び〟がどんなものなのかということだった。
今まで新共同訳を使っていた私は、この喜びは何か世的な、あるいは日常生活で過ごす何気ない幸せを感じる喜びのことだと思っていた。
だから、その意味だと、イエス様が十字架に架かることは、この喜びをあえて捨てるということだと思っていたし、そう思えば新共同訳が理解できた。

一方で新改訳の喜びのためにというのは、復活の希望を表していると思った。

だから、この喜びをどう捉えるかで、新共同訳、新改訳それぞれの2つの訳が生まれたのだと。どちらも正しいのかと。

しばらく考えて、さらに思った。「それはおかしい!」、と。

パウロがこの手紙を書いた時、どちらにも訳せるように書いたはずがない。
当時のパウロの意思はひとつであったはずだ。
聖霊はこの箇所で二通りに訳せるような導きはしないはず。

 

聖書の他の訳を調べてみた。

口語訳
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

New Testament version
Let us keep our eyes fixed on Jesus, on whom our faith depends from beginning to end. He did not give up because of the cross! On the contrary, because of the joy that was waiting for him, he thought nothing of the disgrace of dying on the cross, and he is now seated at the right side of God’s throne.

King James Version
Looking unto Jesus the author and finisher of our faith; who for the joy that was set before him endured the cross, despising the shame, and is set down at the right hand of the throne of God.

こういうわけで、〝喜びのために〟というのが、正しいと思うようになった。それから1年が過ぎ、ここからもう一歩踏み込んで研究することになった。

イエス様の十字架に向かう信仰の姿が、訳によってまるっきり変わってしまうと思った。そして、それは私のため、はたまた全ての苦難を通るクリスチャンの信仰の姿勢に強く影響すると思った。   (david)

→続く