5年前に中村光子先生と出会い、自然とレーマ聖書学院で受講を始めた。

私は長年新共同訳聖書を使ってきたが、授業はふつうに新改訳聖書で進められた。

ある時、ヘブライの信徒への手紙12:2の引用の時に、ふつうじゃない違和感を覚えた。私が覚えた御言葉と違っていたからだ。

問題の箇所

信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 新共同訳

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。新改訳

 

全く違う訳だったのだ。新共同訳と新改訳、表現こそ違いはあれど意味自体が変わることはまずほとんどなく、いわゆる原文の範囲内である。

前章のヘブライ11章は古来より『信仰の書』と言われ、12章はそれに続く当に重要な箇所であり、イエス様御自身の信仰の姿勢に関わるかなり核心部分でもある。そういうわけで私は非常にショックだった。

イエス様は十字架を前に喜びを捨てたのか、

それとも喜びのために十字架を背負ったのか、

 

⭐︎私は当時、長年所属していた教団の韓国の宣教師たちによって考えられない程の苦しみを長年身に受けた挙句、遂には教会を出された(犯罪、事件であった)。牧師の立場、家庭、財産、教会、住まい、人間関係、全てを失い、全く独りで歩き始めたところであった。夜間の肉体労働の清掃業を週4日、週に2日は学童のバイト。そんな生活の中で、火曜日の夜は一回500円で神学講義を受ける時間があった。私は喜びを全く失った生ける屍であった。

 

だから、なおのこと、このヘブライ12:2の本質を知りたいと思った。

(david)