3年間一緒に働いた74歳のおばちゃんからのプレゼント。「理想の上司でした」と。

 

3月31日

これをもってまともな社会人生活のひとつの節目を迎えた。

思えば凄まじい年月だった。

よくも生き残り、ここまで来たと我ながら思う。

ダビデは「私と死とはただの一歩です」と表現したが、私にとってそれはまさに現実となった。ピンボールが弾かれて行くように、時宜にかなった人たちとの出会いによって、私はそんな風にこの道を進んできた。

5年前、◯納さんとの言葉を思い出す。前教団在籍の時でさえ、私は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできた」。本当にその通りです、と彼はしみじみと共感してくれた。それよりもさらに深い闇の中で生き抜いできた。

 

 

前教団に在籍しながら東京に戻り、ひっそりと教育館に住みながら半年間の肉体系夜勤清掃業、1年間の学童のダブルワーク(山形、天童市、寒河江市でいくつかの工場で夜勤の仕事をした)。安息年の年、教団からお金は全くもらえなかったが、それでも自分で稼いだ初任給の10/1を献金として捧げた。さすがにこれはおかしいと思って以降やめた←もはや言いたくないけど、胸の内を言わせてください。どんなに貧しくても10/1献金を16年間捧げた、どんなに貧しくとも献金不正は一度たりともなかった、けど常に貧困の中にあった。)

 

 

そして、常勤としてまる4年間の勤務。

前の上司が私にいろいろな仕事を任せてくれた。

施設のシフト作成、勤務表管理、経理、物品購入、職員面接、イベント企画、、、。

任せられた子どもたちにも、それなりに最善を尽くした。保護者にも。

職員たちにもそれなりに最善を尽くした。※前上司は同性愛者だった。相当に私を苦しめたが、やがて分かり合えた。彼は会社で評判の人。会社で1番仕事ができる人だった。すごく頭のいい人だった。数年後に死んでしまったが、私は彼から学童保育の本質を学んだ。それは今も私の中で生きている。私は同性愛者の偏見がなくなった。大きなことだった。だからと言ってもちろん賛同しているわけではない。彼の弱さを知った。その弱さゆえに人を理解できることを知った。同僚のお母さん、おばちゃんたちに「彼とついに仲良くなったよ」というと、「國分さん、まさかっ!」て言われたけど、そっちではなかった。まあ笑ってください。

このお母さんたちやおばちゃんたちとは今も仲がいい。それぞれの都合で辞めた人も多いけど、今でも私は呼ばれてみんなとたまに食事するんだ。ありがたい。

、、、きりがない。

 

やるだけのことはやった。最善は尽くした。

まるで映画のような日々だった。しかし、その映画は誰も知ることはない。

少しだけ休息したい。

そして、再びスタートしたい。

 

私は思う。これはどこかで言いたい。

あったことはあったこと、なかったことはなかったこと。

なかったことをあったようにし、あったことをなかったことのようにする人間の悪巧みがこうもクリスチャンの間でも横行することを。小さなこと⁉︎をさも大袈裟にし(逆も同じ、大きなことをさもなかったかのように)、自分の仲間を作り、既成事実を作りだし、まるで義とは逆の展開が横行することを。私はそれに度々驚かされたが、死人に口無しなのだろうか。日本らしい武士道精神とは真逆の、大陸系から来る、結局は「自分(たち)が勝てばいい(立場を守ればいい)」「強いものに巻かれよう」という思想が、これほどまかり通るとは。言いたくないけど、つい書いた。

 

誰がどうであれ、真実はひとつ、事実はひとつ。

神の御手に委ねる。誰もが平和で幸せな人生を送ってほしい。考えみると、誰もが子供だったのだ。時がたち、ある意味大人になっただけのこと。あの子供たちと思えば愛せないはずがない。、、、思ったものだ。普段学童で勤務していて、週末に結婚式があると、まるで昨日の子供たちが今時を越えて目の前にいるかのような感覚を覚えた。イエス・キリストの御名で心から聖霊を感じながら毎回司式できた。主が働かれたことを私は知っている。それはそれは素晴らしいものだった。

 

私とこれまで関わって下さったすべての人、ありがとうございます。

どこかで応援してくださっているあなたに深く感謝します。数年会っていなくても、私は昔と変わりありません。その人たちの顔を時々思い出す。もしかしたらあなたは忘れているかもしれませんが。すべて愛すべき方、神の恵みが働いて私が心寄せた人たちである。真実に、アーメン。