3月上旬の土曜日

第1回「ガラテヤ会」なる集会の後に、吉積先生たちと夕食を食べて夜遅くまで話し込んだ。

そこで、いわゆる「キリスト教会」の話になった。

 

私は、以前所属した教団を振り返り、熟考していく中でいくつかの残念な点に気づくようになったのだが、そのひとつは「なぜ神に捧げることを強調して教え、神から受け取ることをあまり教えなかったのか」と。

私は思ったものだった「むしろ、神様が豊かであるゆえに、受け取ることを強調すべきだったのだ」と。

 

食事をしながら、このことを吉積先生に話したところ、明解な解答が得られた。

古代ヘブル語で

「捧げる」とは「両手いっぱいに受け取ること」を意味するそうだ。

これが、捧げるという言語の意味らしい。

吉積先生は過去にアメリカで⁉︎書物を通して調べたらしい。

 

こうしたことは現代キリスト教会一般で以外と教えられていないようだ。教会は信徒に「捧げること」を教えやすい。この理由には、信徒の献金生活が教会維持、牧師給、いろいろ必要とされるリアルな諸問題とつながっているからだろう。受け取るよりも捧げることが本分あるかのように思ってしまう。

本来は、私たちは神様からまずは「手いっぱい」に受け取るべきなのだ。

そして、その手から溢れるものを神様に感謝して捧げる、これが捧げることだと思う。

本来、神の恵みは受け取り続けるもの…両手いっぱいに。

 

ここからは私の余談

現代キリスト教会は先代と比べて明らかに貧しくなっている。日本社会全体と関連しているともいえそうだが、少なくとも、この国ではかつてはたとえ社会が貧しくとも、クリスチャンは豊かだったのだ。そして、その財を社会に還元し、貧しい人々を助けた。聖書の基本的価値観は富をもつことは祝福である。要点はそれをどう使うかだ。

 

イエス様御一行、あるいはペンテコステ後の初代教会の様子、使徒会議において、ガラテヤ書簡において、貧しい人たちのことを決して忘れてはならず、パウロはそれに「努めてきた」と言っている。

 

 

ただ、私たちが貧しい人たちのことを心に留めるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めてきました。《ガラテヤ2:10》出典:聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会