〜2017年のメモより〜

人が苦しみと絶望のドン底に置かれたとき

究極的に行き着くところは
「それでも神を信頼するのか」だった
神の何を信じるのか、信頼するのか
神様の人格だ
このような場合クリスチャンの答えの定型のとして、単に『みことばを信じる(みことばを信じれば良い)』、という答えがあるだろうが、この場合はそんな簡単に言えるものではない。
それはあたかも最愛の人を亡くしたクリスチャンに向かって、「大丈夫だよ、天国に行ったのだから」と定型文を機械的に言ってしまうことと似ていると思う。そのクリスチャンには何の慰めにも力にもなれず、絶望感と孤独感に襲われるだろう。この悲しみを理解してもらえない(理解しようとしない)のだ。
そこに信仰者はいるかもしれないがその苦しむクリスチャンの友はいない。さらに苦しさが増す。
単に『みことばを信じるべき』というなら、その人はよく分かっていないと思う。そして、その究極的な試練を受けていないと思う。
どのみことばを信じるのか、たくさんの聖書箇所がある。
あるいくつかの聖書箇所を握ることになるだろう。
それを日々反すうするのだろうか。
いわゆる「告白祈り」のように、そのみことばを宣言するのだろうか。
しかし、試練の中を生きる人にとって、しかも、長く続きますます現実が厳しくなるのであれば、
「告白・宣言祈り」をしている時にも、人の心は壊れていくと思う。耐えがたい感覚を覚える、精神が耐えられないと思う。
・理由
その宣言しているみことばさえも聖書全体の一部分なのだから。
・神の御心ではない場合
試練がすぐにさらずに、この長い試練を通るという御心だ。そうならば、肯定的な宣言・告白が試練を通るという導き・御心を拒否しようとする、その人はみことばの誤用があり、
無理に型に、強制的には自分自身をめ込もうとすることによって、相当な違和感と苦痛を経験する。
みことばは個人的に啓示・与えられていないなら、自分の支えにななりえない。
・レーマに信頼するのか、そうとも言える。
しかし、それも恐ろしい。レーマかどうかは、究極的に自分自身では絶対的なものとして判断が難しく受け取れないと思う。それすらも信仰を伴うのだから。
最終的には、神は真実で正しい方、よき方という人格に私は信頼をおいた。
たしかマーリン・キャロザースもそう言っている。
このように、神の人格も聖書によって啓示されている。
義であり愛である方。
このような理由と理解があってはじめて
私は「みことばを信じる」と言えるのである。
万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。《詩篇89:8》
ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。《Ⅰペテロ4:19》