2017年頃のメモ

精神に染み込んだカルト教会の毒を抜いていく過程は相当なものだった。そんな過程の1ページから⇩

「神様になんでもお委ねして、自然体で、流れるままにいきればよい」というクリスチャンの意見を聞くことが増えました。私もこの考えを支持していました。しかし、その前提として、「イエス様を愛している」ことがなければ、敗走する信仰の姿勢だと思いました。先ほどの考えで生きている人は、かつてあった熱い信仰が冷めてしまっていることを私は知っていました。失望とか悲しみがその原因なのかもしれません。

愛は努力だと思います。私も「神様になんでもお委ねして、自然体で、流れるままにいきればよい」という姿勢でいますが、同時に神を愛して行きたいです。それは、御言葉によれば羊を飼うことであり、人を愛することだと思います。隣人に大きな関心がなければ難しいことです。

 

最近よい本を読んだ。

マーチン・ルーサーキング 「バーミンガムの牢屋からの手紙」から

私は穏健派の人々が、自由のために苦闘に関して時間が解決してくれるという神話を拒絶してくれると期待していました。ちょうど、テキサスにいる白人の兄弟から手紙をもらったところです。彼はこう書いています。

「すべてのクリスチャンは、有色人種も同等の権利を最終的には受け取るだろうとわかっています。けれども、あなたはあまりにも信仰的に急ぎすぎてはいませんか?キリスト教が、現在の立場を築くまでには二千年かかっているのです。キリストの教えが地上に実現するのには時間がかかるのです。」

このような態度は、時間に関する悲劇的とも言える間違った概念から、あるいは時の流れの中にはすべての病を癒す何かがある、などといった妙に不合理な概念から生じています。実は、時間それ自体は中立なものです。それは破壊的にも、建設的にも用いられるのです。善意の人々よりも、悪意の人々の方がより効果的に時間を用いていると、私はますます感じています。この世代にあって私たちは、悪意に満ちた人々の憎しみの言葉と行為だけではなく、善意に満ちた人々のあきれるほどの沈黙をも非常に残念に思わなければならないでしょう。人類の進歩は、避けられない運命という車輪の上で転がっていくのではありません。神と共に働く意思を持った人々の、倦むことのない努力によってなされるのです。そして、この大きな犠牲がないなら、時は停滞という敵の軍勢の盟友となってしまいます。私たちは、今こそ正しいことを行う時が満ちたという認識をもって、時を創造的に用いなければならないのです。」