[ 教会とは ]

富の分配

先日、ある方から献金を頂いた。

その人もそんなに裕福な人ではないことを知っていた。

私は遠慮したのですが、ご好意ということで受けとりました。

正直に言って嬉しかった。

そして、私は受け取る前に決めていたことがあった。

この献金は「分けよう」と。

キリストのために命を捧げている、あの貧しい家庭と、あの人に、と。

どちらも長年キリストのために、福音のために命を捧げて来た人だ。

しかし、そのためにある意味、家庭や自身を犠牲にされてきた。

もしもお金があったら避けられた悲しみも事実多かった。

 

 

私が思うに…。間違っているかもしれませんが…。

富のあるクリスチャンには富のあるクリスチャンが集まりやすく、

貧しいクリスチャンには貧しいクリスチャンが集まりやすい。

同じように、富のある教会には富のあるクリスチャンが集まりやすく、

貧しい教会には貧しいクリスチャンが集まりやすい。

(おそらくこれ事実多いと思います)。

 

そもそも献金ってなんのために。

もちろんいろいろな使い方があっていいと思う。

でも、

キリストのために熱心に生きてきた人(生きている人)が、

貧しく、ギリギリで生活していることがこれほど現代に多くあっていいのか、と。相当なものです。

 

新約時代を思い出す。

「貧しい人はひとりもいなかった」って。

私はお金はないけれど、お金がない人々を助けたいと思う。

お金ってあるところにはけっこうあるし、それが届いてほしいところに流れてこない。

 

誰にでもお金をあげればいい、というのではなく、

節度をもって、キリストの愛の中で、みんなが助け合い励まし合いながら

普通の家庭の暮らしができて、子どもたちも普通に育てられて、

宣教の働きが進められたら素晴らしいなって思うのです。

現代、そしてこれからの社会は格差が広がりもうこの流れは止められない…。

キリストの体も同じなのか…

世とは違うコミュニティ、イエス様ゆえにあの御言葉がキリスト教界でできないかなって…。

それが教会(エクレシア)なのではと思いました。

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。《使徒4:32》